たけし(北野武)さんの「自由論」が鋭いなぁと思った話。
先日、たけしさんのことばが心に刺さるのは、人生において「死」というものを意識されているという面があるからではないか、と書かせて頂きました。
今回は、たけしさんの本「全思考」や「新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか」にある「自由論」が鋭いなぁと感じ入りましたので、ご紹介したいと思います。
現代の教育環境においての話です。
昔の子供は、学校でも家でもタガを嵌められていた(=自由が極めて制限されていた)。
ところが今は、まるっきり逆転したタガのつけ外しをしている。
学校でも家でも、子どもはタガを外されて、何でも自由に好きなことをやれと言われる。
だけど、その一方で、夢をあきらめるなとも言われる。何かといえば一所懸命やることを強制する。
ナンバーワンが無理なら、オンリーワンを目指せとか。とにかく、人に誇れるものを何か目指さなきゃいけないということになっている。
たしかにそうですね。
周りを見回しても、小さい頃から習い事漬けのお子さんをよく見ますし、
何より私自身が、(子ども時代ではありませんが、)会社員の頃、特に何か秀でた技術や特長が必要だと、半ば強迫観念のように思っていました。
たけしさんは続けます。
自由に何でも好きなことをしなさいと言われたって、何していいかわからないという子供の方が多いんじゃないか。
自由というのは、ある程度の枠があってはじめて成立する。なんでもやっていいよという枠のない世界にあるのは、自由ではなくて混沌だ。
(中略)人間の知恵や想像力は、壁や障害があってこそ豊かに発揮される。
知恵や想像力で壁を乗り越えるところに、自由の喜びがある。何でも自由にやっていいよという世界では、知恵も想像力も働かせる必要がない。
寝転がって食いたいものを食って、テレビでも見ていましょうということになるのがオチだ。
たけしさんは「混沌」という言葉を使われていますが、「放埓」ということばでも良いのではないでしょうか。
要するに、現代社会で「自由」ということばで表されている事態って、2通りあると思うのです。
ある程度の枠、いや、枠というより、軸・土台といった方が良いでしょうか・・・
そういったものがベースにあったうえで、自在に創造性を発揮したり思考・行動することが、「自由」なのではないでしょうかね。
具体的に言えば、我々に共通の倫理観、良心、他の人を傷つけないというルールなど、最低限必要で共通な土台のうえで、自由は成り立つのだと思うのです。
一方で、ベースなんてなく、何でもしてもいいというのは放埓であり、たけしさんの言う混沌とした状況に導かれるということは、十分にあり得ます。
エーリッヒ・フロムが「自由からの逃走」で喝破したように、いざ枠組み・ベースが解体され切ってしまうと、人は不安になり、結果として再度タガをきつく嵌められた状態(ドイツの某政権)を求めてしまったという歴史があったわけですし・・・
今、自由があまりにもタガが外された方向に進んでいるというたけしさんの視点は、なるほど鋭いなぁと感じ入りました。
自由と放埓(混沌)の境界線って、多分時代とともに変化するでしょうし、線引きの難しさや人によるバラつきはあるでしょうけど・・・
ある一定の土台(ベース)や軸が無いと自由は成立しないだろうなぁと思います。