【唯識思想】 -「こころ=識」以外には何も存在しない、という世界観-
本日から、唯識思想について書いてみたいと思います。
唯識三年、倶舎八年という言葉があります。
唯識を完全に習得するには、
-倶舎もマスターする必要もあることから-
合計で十一年もかかりますよ、ということを言っています。
これは、桃栗三年柿八年をもじって語られているため、
十一年かかるというわけではなく、
唯識思想を体得するには長い年月がかかりますよ、ということを示しています。
ここでは唯識について、自身の備忘録も兼ねて、記事にまとめてみます。
確かに、認識論、存在論的な箇所は複雑で難解です。
五位百法、五事説、四分説、因縁変・分別変などの用語が出てきますが、
よくもまあ、これだけ複雑に分類できるものだなあ、と感じます。
ただ、根本部分は案外シンプルなことを言っているのではないかと思います。
(根本部分以外、よく理解できていないという話もありますが・・)
では、唯識の根本的な意味は何なのか?
それは。
「こころ=識」という存在物以外は何も存在しない、
ということですね。
唯識思想では、こころを八層に分けます。
表層の六識、すなわち、眼、耳、鼻、舌、身、意の奥に深層的な
「阿頼耶識」をたて、この阿頼耶識こそ自己存在の究極体であり、
輪廻の主体である、としています。
※もう一層、深層的な「末那識」もありますが、
ここでは簡単化のため、説明を省きます。
そして、阿頼耶識とは何なのか?
色々な言い方ができます。
・我々の心身を維持し続ける「生理的・有機的基盤」
・現世から来世へと引き継がれていく「輪廻の担い手」
・心の奥で休むことなく活動し続ける「深層心理」
何か、大きなシステムのことを表しているような表現ですね。
また、阿頼耶識の中には我々の体験(=業、カルマ)の影響が
すべて「種子」として植え付けられている、と言います。
この業種子を植え付けるのは、主に表層六識による善悪なるものなので
この真理を悟り執著を捨てることで、新たな種子を貯めこまないことと、
貯めこんでしまった種子を手放すことが肝要なのでしょう。
さて、唯識全体の話に戻ります。
何といっても唯識が難解なのは、その用語の多さではないでしょうか。
先ほど、「こころ=識」以外のものは無い、と申し上げましたが、
これら世界観を語るために、五位百法、五事説、四分説、因縁変・分別変などの
複雑で難解な用語・概念や夢を持ち出すことなどで説明しているため、
唯識は難しい、という話にもなってくるのかな、と思えてきます。
世界観を語るための難解な用語を置いておいて、
まずは、大きな流れ、目的などを把握する方が良いのでしょうね。
長くなりましたので、次回に続きます。