実は、現存する神社・お寺の興味深い解説書だったりもします。神仏習合から神仏分離へと至る歴史的考察がテーマの【神も仏も大好きな日本人】はいかがでしょうか。
先日、「なぜ日本人は神社にもお寺にも行くのか」との書籍をご紹介させて頂きました。
今回は、同じ島田裕巳氏の著書「神も仏も大好きな日本人」のご紹介をさせて頂きます。
本書は、神社、寺院が歴史的に【神仏習合→神仏分離→別の道をたどりながら現在に至る】ことが主題となっている点では、同テーマの本と言えますが、内容は一味違っています。
本書では特に、神社、寺院に残っている絵画、仏像などにあたりながら、上記の歴史を、具体例を交えながら記されています。
例えば最初に、あの有名な阿修羅像がなぜ興福寺のお堂ではなく、長く奈良国立博物館に預けられ、そして今、国宝館に安置されているのかを考察することにより、興福寺の大変な歴史(つい最近=大正時代まで荒廃していたのです)が語られています。
そして、薬師寺なども同様の状況だったのです。
そこには、明治維新時の神仏分離の動向が大きく影響しています。
さらには、東京の浅草寺、奈良東大寺、春日社(春日宮曼荼羅の話は興味深かったです)、中宮寺、法隆寺、法起寺、京都願徳寺、伊勢神宮など全国の神社、寺院などの興味深いトピックスが語られています。
このような事実を知っていれば、寺院などに訪れた際の鑑賞の仕方が一味違っただろうな、と思えます。
まあ、もう一度行って鑑賞してみれば良いのでしょうね。
仏像、寺社建築、神社建築などの鑑賞意欲をわき立てて頂けました。
そして、前回と今回の本を拝読して思うのは。
なぜ日本人は、こんなにも神社、寺院が好きで、そして数々の行事にも参加しているにも関わらず、自らを無宗教と言っているのだろうか?ということです。
その答えの一つとして、著者の島田氏は、「日本人は、宗教と長く接してきたがゆえに、節度を持って一定の距離をとって宗教と接している。自分たちが宗教の世界に、生活のすべてをなげ打ってはまりこんでいないため、信仰を持っていないと錯覚している」と言われます。
そうですよね。
日本人の場合、一神教のような絶対神ではなく、「八百万の神々を祀っていること」そして「日常生活を律するような戒律が無いこと」などにより、
私たちがイメージし勝ちな「宗教とは、カッチリとした厳しいもの」との状況とはかけ離れているがゆえに、自分たちは無宗教だと思っているのかも知れないな、と感じます。
さらには、メディアなどで、カルト宗教による種々の被害状況がセンセーショナルに報道されることで、
「宗教=怖いもの、危険なもの」とのイメージが植え付けられていることも一因かもしれないですね。
しかしながら。
宗教をもっと普遍的、偏っていない視点で捉えてみると、私たち日本人は古来より、ゆるやかで節度を持った宗教心を持っているのは確かではないでしょうか。
そして現在のような、神社、寺院が分けられた状況は、ほんの150年くらいのもので、案外に歴史は深くなく、
私たち日本人が長らく信仰してきたのは「神仏習合教」とでも言えるような宗教かも知れないなと思いました。
なるほど、本書「神も仏も大好きな日本人」に当たってみることで、先日のヘミシンク練習会でも、神様、仏様、神社、寺院って、きっちりと分けようとしても、よ~くいろいろな事例にあたってみると、その境界がよく分からない面があるなぁ、と感じたことについても得心できたような気がします。