【日本仏教史】を俯瞰する -伝来から平安仏教まで- (備忘録)
これまで、インド哲学史、ヨーガ、密教、唯識等について書かせて頂いてきました。
ということで、次は、日本仏教に触れてみたいと思います。
今回は、「日本仏教史―思想史としてのアプローチ」やWikipediaなどを参照しながら、日本仏教について歴史的な視点でまとめてみたいと思います。
著者の末木文美士氏は、日本仏教がご専門ですが、それに限らず、インド、中国含めた仏教全体やインド哲学まで造詣が深く、多面的な考察が参考になります。
末木氏によると、日本仏教の大きな特徴は次の3つであると言われます。
1.法(教理・思想)や僧(教団)よりも、仏の崇拝が中心であること。
2.難しい理論ではなく、現世利益が重んじられること(後に、死者供養が加わる)。
3.古来の神の崇拝と一体化すること。
確かにそうですね。
さて、これより自身の備忘録を兼ねて、日本仏教史を簡単にまとめていきたいと思います。
まずは、仏教の伝来から、です。
仏教の伝来の年については2説あり、538年という説と552年という説があります。
1500年も前なので、不明点が多々あるようですね。
その際に伝えられたのは、仏像、仏具、経典だと言われています。
6世紀に伝来した仏教は、蘇我氏、物部氏などの争いを経ながらも、国家、貴族を中心に浸透していきました。
仏教が飛躍的に発展したのは、何といっても、聖徳太子(574~621)の功績が大きいですね。
少し前の1万円札、5千円札の肖像画にもなっているし、日本ではカリスマ的な人気を誇っています。
古い話なので、いろいろと不明な点は多いですし、諸説ありますが、ちょっと聖徳太子について書いてみます。
聖徳太子は、用明天皇の子として生まれ、推古天皇の即位とともに摂政となり、遣隋使の派遣、冠位十二階や憲法十七条の制定、史書の撰録など、国家体制の整備に力を注ぎながら、寺院建立、経典の講説もされました。
三経義疏などの仏教書も執筆したと言われます。
法隆寺に行くと太子ゆかりの物品、建造物を観ることができますし、四天王寺なども興味深いですね。
私自身、法隆寺の聖徳太子像を観た際は、感慨ひとしおでしたよ!
ブログスペース(?)の都合上、話は飛びますが、太子の功績もあり、その後、ますます仏教は発展していき、奈良時代には南都六宗と呼ばれる学派にまで発展しました。
ちなみに、南都六宗とは、倶舎宗、成実宗、律宗、華厳宗、三論宗、法相宗です。
寺院で言えば、奈良の興福寺が法相宗、唐招提寺が律宗、東大寺が華厳宗です。
1200~1300年前に伝来した仏教宗派が現存することにロマンを感じます。
続いて、平安時代です。
平安時代と言えば、最澄さん、空海さんがスーパースターでしょうか。
奇しくも、最澄さん、空海さんとも、同時期の船で唐に渡られます。
最澄さんは天台山で伝授を受け、空海さんは青龍寺の恵果に密教の伝授を受けます。
ご存知の通り、最澄さんが起こした天台宗は、比叡山を拠点に、法華経を基本としながら禅、密教などにも関わるという、いわば、仏教の一大センターと言える体であり、その後の鎌倉仏教開祖たちの輩出につながる重要な宗派となりました。
一方で空海さんが起こした真言宗は、今ではチベットと日本にしか存在しない「密教」の宗派です。
このように発展してきた仏教ですが、当時の仏教は国家や貴族のためのものであり、加持祈祷など密教的な儀式を重視していたようでした。
一方で、末法の世であること、本覚思想の発展などの背景もあり、急速に庶民化が進んでいきました。
これについては、結構大きなテーマとなりますので、別の記事とします。
記事についても以上です。
次回に続きます。