【無、境界、善悪の判断】に関する荘子のことばをかみしめる

荘子のことばです。

その英智に最高にゆきついた境地があった。

どこか。

もともと物などはないと考える(無の)立場である。至高であり完全であって、それ以上のことはない。

その次の境地は、物があるとは考えるが、そこに境界を設けない(物我一如の)立場である。

その次の境地は、境界があるとは考えるが、そこに善し悪しの判断を設けない(等価値観の)立場である。

荘子

私たちは言葉を持ち、日常で使用しています。

言葉には、境界で区切られた個体を定義する役割があります。

この極めて強力な役割は、「万物は別個の個体として存在している」との強固な信念を、私たちに植えつけています。

そしてさらに社会を発展させてきた私たちは、社会通念、常識などの社会的な取り決めを次々と決めていき、それらの多くは一時的な取り決めであるにも関わらず、未来永劫、強固なものとして、「これは善い、これは悪い」と判別してきました。

境界を設けたことから発展した判別、判断、評価といったものが、私たちの争い、苦しみなどを生じさせたといっても過言ではないのではないでしょうか。

冒頭のことばにある1番目の「無の境地」については文章にして語るのが困難なため(とは言え、いつかまた表現してみます)、2番目の「境界を設けない境地」から本ブログを書かせて頂きましたが・・・

いずれにせよ、ことばを超えた世界のことであり、ことばを超えた世界にこそ、本質があるのだと思います。

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