反知性主義の解説に加えて、キリスト教史・アメリカ現代史としても秀逸な本:森川あんり氏の【反知性主義】
先日、「日本の反知性主義」なる本のご紹介をさせて頂きました。
あの本を読んでみて、「あ~、反知性主義ということばをよく耳にするけど、結構意味するところとか、使われる場面がバラバラだなぁ」と感じました。
時代とともに「ことばの持つ意味」って変わり得るもので、「反知性主義」ということばは、まだ過渡期なのかなぁ、などとも思いました。
さて、この「反知性主義」ということばですが。
アメリカ生まれのことばです。
「アメリカの反知性主義」という本を書いたリチャード・オフスタッターによって、1960年頃に名付けられたことばなのです。
だったら、オフスタッターの本を読めば、そのことばの起源がよく分かっていいと思われるのですが・・・実はこのことばの背景には、アメリカのキリスト教史が深く関連しているのです。
この辺りに疎い私には、オフスタッターの本って、結構敷居が高いのです。
以前のブログで西洋哲学の本を読むとき、独特の作法、前提とされているものがあるようで、かなり読みにくい、頭に入りにくいということを書かせて頂いたのですが・・・
実際にオフスタッターの本をちょっとだけ読んでみて、同様の読みにくさを感じたのです。
多分、ですが・・前述のとおり、西洋社会ではキリスト教的価値観・世界観が深く根差していて、思考様式・順序などが、東洋?いや日本?いや少なくとも私にはなかなかに敷居が高いものだったりするのでは?と思い至りました。
聖書を通読すると良いのかも知れないなぁ、などと思ったりもしました。
こんな感じで長々と書かせて頂きましたが・・・このような私にとって、西洋的な文化が背景となることを理解するためには、西洋と東洋の橋渡しとなる存在、すなわち「日本人が西洋について書かれた本」を、まずは読むことが定石になっているのです。
今回ご紹介する本は、森本あんり氏著「反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体―」です。
森本氏は、日本の神学校を出て、アメリカに留学された方です。読んでみて、そのアメリカ現代史、特にキリスト教という切り口での歴史考察の詳しさには感嘆しました。
その時代にいらっしゃったの?とすら思ってしまいました。ちょっと言い過ぎかもしれませんけど・・・
さて、森本氏曰く、反知性主義とは?
・「知性と権力(政治など)の固定的な結びつきに対する反感」であり、
・「知的な特権階級が存在することに対する反感」です。
そして、「知性が越権行為をしていないか、自分の権威を不当に拡大使用していないかをチェックする機能」です。
知性がある/ないではなく、「知性がどのように働いているか」を問うているのです。
日本でしばしば使われるような、社会の病理を示すようなネガティブな表現で使われるものでは無かったのです。
ここでちょっと思うのが、
アメリカでは、何でそこまで権力に拒否反応を示すのか?という点です。
日本では、最近はその傾向が薄まったとは言え、20世紀頃、権力を畏怖する、権力に憧れるような面があったような気がします。
「末は博士か大臣か」なんて言葉があったように、知性(博士)と権力(大臣)が同列に位置し、目指されるもの、尊敬されるものである、という見方があったと思います。
対して、なんでアメリカでは反知性志向なのか?反権力志向なのか?
そこには。
アメリカに土着し、変質していったアメリカでのキリスト教の精神とか、建国の歴史的経緯などの要因があるのです。
とても一言では語り尽せませんが・・・極めて単純化して乱暴に言ってしまうと。。。
アメリカの建国の経緯で、ピューリタリズムの極端な知性偏重があり、それに対する反動として信仰復興運動が起こり、同時に強烈な反知性主義が育まれていったのです。
そこには、「人工的に築きあげられた高慢な知性」よりも「素朴で謙遜な無知」の方が尊いという基本的な感覚があり、
「神の前では万人が平等」なのに「霊性より知性が重要だという価値付け」に激しく反対するという価値観があるのです。
その背景には、歴史的に王や貴族の時代を飛び越えて、いきなり共和国になったゆえ、知識人の役割を突出させざるを得なかったこと、「この世界での成功=個々の信仰の証明」というような価値観が一般民衆に深く根付いたこと、という点などがあるのです。
う~ん、ちょっと単純化し過ぎたかも知れません。
繰り返すと、アメリカ建国の経緯、土着化したアメリカのキリスト教理解などが絡み合っており、その辺りを詳しく書かれているのが、この本なのです。
アメリカ現代史としても興味深く読める一冊ではないかと思います。
それから、いつかリチャード・オフスタッターの本も読んでみたいですね。
そうすれば、もっと気の利いた要約ができると思います。