「反知性主義」って言葉をよく聞きますけど・・安易に使わない方がいいな、と思った話。
ここ数年、反知性主義という言葉をよく聞きます。
反知性主義って何なのか? どんな文脈で使われているのか?
いやいや、その前に、知性という言葉自体もよく分からないのになぁ、と思いつつも。。。一応そこは置いておいて。
目の前に「日本の反知性主義」という本があったので、常々気になっていたこともあるし、手に取ってみました。
本書は、内田樹氏を編者(内田氏ご本人も論じられています)とし、総勢10人の方が「日本の反知性主義」を主題に文章を書かれています。
読んでみて思ったのが、「う~ん、何やらまだ、用語の意味が統一されていないなぁ、かなりバラバラな解釈ではないか」というものです。
元々、反知性主義という言葉が有名になったのは、リチャード・ホーフスタッターの「アメリカの反知性主義」という本によってでした。
ホーフスタッターがこの本を書いたのは、もう50年も前です。1960年代の作品です。1950年代にアメリカ大統領選挙で、いわゆる「知性」対「俗物」の戦いとなった際、俗物とされるアイゼンハワーが勝利するというマッカーシー旋風を受けて、アメリカ史を遡りながら、アメリカの「反知性主義」について考察した、という内容です。
ホーフスタッターの本での反知性主義とは?
知的な生き方、およびそれを代表するとされる人々に対する憤りと疑惑であり、そのような生き方の価値を、つねに極小化しようとする傾向、
なのだそうです。
何だかちょっと分かりにくい定義のようにも思えますけど、まず言えるのは、「反知性主義とは知性を持たないということではない」ということです。
そして、「体制側 vs 知性に反感を抱く民衆」という対立の構図を持ち、民衆側の「知性への攻撃的・侮蔑的態度」のことを反知性主義という言い方ができるかと思います。
これに対し、本書では、赤坂真理氏が編集者に確認されたという、こんな文章があります。すなわち、「反知性的な態度」とは、
実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度、「自分の都合のよい物語」の中に閉じこもる(あるいは開き直る)姿勢、
という定義がなされています。ご都合主義という言い方でも良さそうですね。
為政者側が自分に都合のよいように物事を解釈し、民衆を意図的に誘導しようとするようなニュアンスを感じます。政治的なニュアンスがありますね。
一方、平川克美氏は反知性主義を、
現場での体験の蓄積や生活の知恵がもたらす判断力を、知的な営為や想像力がくみ上げた合理性よりも信頼するに足るというイデオロギー、
と定義されています。こちらはホーフスタッターの定義にちょっと近いでしょうか。
「既得権益者に挑戦する現場・現実志向の政治家」という図式などが、その典型でしょうか。反知性主義を利用した、という図式ですね。
また、本書では、この他に反知性主義というよりは、知性と非知性を分かつものはなにか?というような論調も目立ちます。
う~ん、読んでみて、何だかよく分からなくなってきましたね。
時代とともに言葉の意味、使われ方が変わってくるのは当たり前なので、いろいろと解釈があるのは、まあそうだろうな、とは思いますが・・・
確実に言えるのは、安易に反知性主義という言葉は使わない方がいいな、ということです。ある一定の意味付けはありそうですが、様々に解釈されかねない言葉だなぁ、というのが感想です。
また、本書の一部で書かれている「知性vs現場での体験主義」のような2項対立ではなく、「ほどほどの知性(平川さんの言われる「知的営為による合理性」の意味で。)と現場体験がミックスされる」のが良いのではないでしょうか。個人としてもそうですし、組織としてもそんな多様性があると良いのではないかと感じました。