私たちの社会に深く根差した もう一つの信念「科学教」についても考えてみました。

 

昨日に続き、現代社会に深く根差したもう一つの信念について書かせて頂きます。

それは。

「科学教(信仰)」です。

 

科学、特に自然科学の特徴は、目に見えるものを外から観察すること、誰がやっても同じ結果が得られるような法則(再現性と因果関係)を確立することです。

ここで少々補足させて頂きますと。。。

自然科学ではなく社会科学では、誰もが再現できることというよりは、社会のある場所で起きている(概ね1度切りの)現象に深く入り込み、観察、分析することが行われます。

が、それでも、観察することと他事例へ疑似的に適用できそうな社会法則を探し出そうとする点において、準科学的であると言えます。

要するに、外から観察、因果関係を把握する(=信頼性、再現性)ことが、科学の大きな特徴と言えます。

そこに倫理はありません。入り込めないと言った方が良いかもしれません。

倫理を否定する/肯定するという次元にはなく、本質的に倫理に無関心、無関係だということです。

 

このような考え方をベースにして発展してきた科学は、我々の生活に大きく役立ってきました。

と同時に、心の中の問題、道徳、倫理、形而上学的な問題などは、観察、再現性の観点から科学の俎上に乗せるのは難しい、ということで著しく(科学的な)発展が遅れてきました

心理学では、脳神経科学的アプローチ、インタビュー、アンケートなど、様々な工夫により科学的な捉え方が発展してきていますが・・・深い心の動き、形而上学との境界的な領域などへは、今もって科学が入り込めていない状況です。

 

哲学者カントは、科学(=純粋理性)で扱え得るのは、因果関係のある、外から観察できるものだけであり、形而上学的、道徳的なものは「実践理性」として科学とは別の領域で扱うべきだと述べています。

形而上学的、道徳的なものを否定するのではなく、別領域で扱おうということです。

けれども、です。

産業、工業とガッチリと結びついた科学は、ここ400年で飛躍的な発展を遂げ、ついには形而上学、道徳といった領域を凌駕するまでに至りました。

形而上学や道徳は、科学・経済より優先されないものとして扱われるようになったのです。

 

これって、結構危ない状況ではないでしょうか?

 

我々はまず、「科学の扱える範囲の限界があることを認識すること」から始める必要があるのではないでしょうか。

そのうえで、「科学で扱えない領域」を否定せず、科学と並び立つものであり、「従属するのではない」ものとして扱うことが大切ではないでしょうか。

 

もちろん、形而上学、心の世界などにおいても、「再現性」「信頼性」を意識する、などの【統合的な歩み寄り】も大切だと思います。

科学一辺倒ではなく、これ以外の世界も、もっともっと復権すると良いなぁ、と思います。

 

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