内部者の視点から。【スーフィズム】からの印象的な言葉。 -スーフィズム イスラムの心-

 

前回、スーフィズムの世界を西洋の眼から俯瞰的に眺めた入門書「イスラムの神秘主義―スーフィズム入門」についてご紹介しました。

 

今回は実際にスーフィズムに携わる方、アルジェリアにあるアラウィー教団の指導者(本書執筆当時)であるベントゥネス師によって書かれた「スーフィズム イスラムの心」についてご紹介します。

 

スーフィズムが目標にしている点については前記事のとおりですが、本書は、より「中庸の道」、すなわち極端を離れて顕教と秘教のバランスを取ること、および現代社会との関わり、貢献を重視するという主張が特徴的だと思います。

 

教団の指導者だけあって、本書内の文章には具体的な内容が随所にあります。今回はそれらの内、幾つかを抜粋してみましょう。

 

まずは我々が日常の世界に埋没し切っていることへの警鐘の言葉です。

・この身体が与えられているのは、私たち(注:自身の内面、こころ、本質のこと)に仕えるためであるのに、私たちの大多数はそれに仕えるために時間を消費している。

私たちは身体に気を使い、それに服を着せ、それを慈しむが、最後にそれらは私たちを奴隷にしてしまう。私たちは身体という覆いの虜となる。

・単純さの中に生きること、そして自分が何を求めているかを確信していること、私たちの不幸は物事を恒久的に区分することにある。

・私たちは物を使役するのではなく、自分たちが使役されているのである。

・時間において限定されるものは、すべて幻想である。

 

冒頭に書かせて頂いた「中庸」については次のように書かれています。

・スーフィーの道の特徴は、すべての導師たちは顕教の道と秘教の道の双方を実践し、一方が他方を支配することがないように、常に両者を調和させることができるという事実にある。

・文字と精神は一つの調和をなす。

文字を特権化することなかれ、それは干上がってしまうから。また霊を特権化することなかれ、私たちは地上の世界に住んでいるのだから。

 

そしてこちらの言葉は、スーフィズムについて、部分的ながら端的に示したものです。

・絶対的な優先性は、生涯にわたって神に向けて歩み続けることを可能にする希望を、人間の中に根付かせることである。〈一体性〉の考え方を決して見失ってはならない。

・目指すは、ファナー(消滅)体験であるが、それは雨水がすべて大海の中に流れ込み、一体となるように、「純粋絶対者」との一体性を実感し、本来の自己を再発見することである。

 

最後に、本書における大きな主張の1つでもある、一元性の体験(個我の消滅体験)から日常生活に戻ることを強調されて点については、次のとおりです。

・そこ(現代の世界)に戻るには、善悪を示すルールを知り、自己と他の区別がなされねばならない。スーフィーがこのような日常生活に戻るといっても、それは以前と同じ状態で戻るということではない。自我が戻るといっても、それは無分別の分別である。

存在の基本的一体性に覚醒した後では、自他や善悪、言葉による分別はあっても、それは仮のものであり、そこには以前の絶対性はない。

・自我といっても、それはあくまで仮のもので、神の中に包摂された大我なのである。

 

何が実体・真実であり、何が幻想なのかを見極めたうえでこの社会を生きる、ということだと思います。

このためには、中庸、中道、バランス、極端に偏らないことに留意することが大切なのではないでしょうか。

内部者の視点で、スーフィズム(もしかしたら、一般的な内容ではなく、一つの宗派についてのことなのかも知れませんが・・・)について、かなり具体的に分かる本であると思います。

 

 

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