理性を超える世界:「本質」の世界を否定しないことの大切さを知る -カントの宇宙観より-
今回は、カントの宇宙観について感じたことを書かせて頂きます。
カントといえば、西洋哲学の大家であり、理性を最高原理とし、理性の権威のような印象があるかと思います。
が、そのようなイメージとは異なり、カントは、理性を超えた世界についてもしっかりと規定していた、ということをシェアしたいと思います。
1.「本質」の領域を想定したこと
カントは、「いつ」「どこ」で確定できる世界(=時間と空間の中にある世界)のみが、人間の理性で認識可能な範囲だと論じました。
そして、時間・空間が及ばない、認識できない領域として「英知界」というものを規定します。
理性、論理で突き詰めて考えていくことで、あたかも、仏教の唯識やデヴィッド・ボームの語る暗在系のような、時間も空間もたたみ込まれた「本質」の領域に認識が至っていることに興味を覚えます。
2.理性の及ばない範囲は「否定されていない」こと
カントは、神、自由、魂の不死などの形而上学的なものを、人間の認識、知性の及ぶ領域から締め出しました。
しかし、です。
カントは、神、自由、魂の不死、といったものを【否定しているわけではない】のです!
現代社会を占める理性的思考、科学的アプローチでは、これら形而上学的なテーマをほとんど無視してしまっていますが、認識できないことを存在しないものとして否定するのではなく、違った切り口でアプローチしていくことをしっかりと認めていくことが大切なのではないかと感じさせられます。
これら形而上学的テーマは、哲学では大きなテーマですし、我々の日常でも関心の深いテーマです。
(科学など)時空間で認識できるものと同じくらい大きなテーマとして、このような形而上学的なテーマを、ためらわずに、重要なテーマとして認識すること、科学に囚われない様々なアプローチで解明していくことが大切なのではないかと感じます。
3.徳・倫理などの「実践倫理」の優位性について
意外かもしれませんが(とは言え、読んでみれば、実は意外でも何でもないのですが)、カントは、純粋理性よりも「徳・倫理などの実践理性」を上位のものとして扱いました。
現代社会においては、純粋理性で扱う科学、経済というものが「ほぼすべての世界」と化しています。
が、そうではなく、まずは実践理性の価値を今一度見直すこと、そして実践理性優位とまでは言わないまでも、実践理性と純粋理性を両輪として扱っていくことが、今後望まれていくことではないかと強く思います。
科学、経済自体には、その成立経緯・考え方を踏まえると、実践理性(徳、倫理)という概念は入ってこないからこそ、意識的に実践理性を大きな価値として扱っていくことが極めて大切なことだと感じます。
西洋哲学、とくにカントなどドイツ観念論は難解である、と思われ勝ちですが、そうならば、入門書などを読むことで、その壮大な思想体系にふれてみることが大切なことを実感します。
理性がすべてではなく、「理性を超える世界」と「理性」を、両立したものとして扱うこと、が大切ではないでしょうか。