哲学者の中島義道さんの「反絆論」も、絆について考えさせられますね。
中島義道さんという、カントがご専門の哲学者がいらっしゃいます。
中島さんは、「ひとを〈嫌う〉ということ」というようなタイトルの、結構シニカルな本を書かれていらっしゃいます。今回は、そのような中島さんが「絆」について書かれた「反〈絆〉論」についてご紹介させて頂きます。
中島さんも香山リカさんと同じく、〈絆〉が日本中で言われていたことに対し、
〈絆〉という一文字の絶対化が人の目を曇らせる、
細かく微妙に動く人の心の動きを見せなくするのだ。
と言われています。さらには、
人々から批判的考える力を削ぎ落とし、
ただひたすら定型的な言葉を発して
外形的に動くことを強制するのだ。
〈絆〉とは麗しい言葉である。
だからこそ、そこには人を盲目にする暴力が潜んでいる。
ここだけを抜き取ると厳しい表現に聞こえるかもしれませんが、そうではありません。文章を重ね、説得性を持って、「絆」という麗しい言葉が人々への圧力を加えていることを鋭く見抜かれています。
当然ながら、〈絆〉とは本来人を「縛る」面もあること、例えば、親子の絆、夫婦の絆、地域社会の絆が「善いこと」ばかりを含意せず、それがいかに個人を理不尽に縛るか、を広い視野で意識することが大切なのでしょうね。私自身、地域社会の絆による束縛に対してかなり反発を覚えていましたので、かなり実感を持つことができます。(ちなみに最近では、昔ほどの束縛感を感じなくなっています。面白いものですね)
中島さんも、若いころ、〈絆〉に対し激しい違和感を感じられていました。
そのような中で中島さんはどうされているか?
ここがかなり面白いのですが、中島さんは、自分で自分の信念と感受性に適合した〈絆〉を創り上げるしかない。そして、そこに似たような信念と感受性を持った他人を呼び寄せるしかない、と考えられました。
具体的には、ご自身の信念と感受性に合った「哲学塾」を開催されているのです。
中島さんは、長い間、大学で哲学をされていましたので、社会の中で長い長い思索や準備を経た上で、このような絆を構築されたのです。
このことを中島さんは次のように言われます。
自分の弱さをかかえたままでより快適な〈絆〉を
求めても、究極的には何も与えられない。
社会を嫌悪し、社会を怖れたままではいけない。
まさにニーチェの言うように、強くならなければ
ならないのだ。反語的であるが、社会から抹殺さ
れないためには、社会的に強くならなければならない、
現実に評価されなければならない。それによって金を稼ぎ、
それによって生活できる場、しかもできれば、
それによって生きがいを感じられる場、本当に自分にとって
心地よい場を獲得しなければならないのである。
同意します。
大切なことだと思います。