【日本仏教史】のトピックス -徳川幕府による巧みな宗教政策に膝を打つ-
今回も、仏教日本史を俯瞰した中で印象に残ったお話です。
ご存知の方も多々いらっしゃるとは思いますが、自身の備忘録も兼ねて書かせて頂きます。
それは、徳川幕府による巧みな宗教政策についてです。
仏教界を幕藩体制の中に組み込み、さらにはそれを補完する役割を担わせるという、まことに巧みな政策だと、改めて思います。
まずは、当時の時代背景から書かせて頂きます。
時は戦国時代。
一向一揆、法華一揆などが頻発し、宗教勢力への対処が天下統一の重要な課題となっていました。
織田信長は、叡山の焼打ち、一向一揆を起こした本願寺の弾圧、安土宗論による日蓮宗の排斥など、強硬的な対応を行いました。
そして豊臣秀吉は、根来や高野山を屈服させる一方で、自身の支配下に置くという目的で仏教の復興も行いました。
このように、時には強権的、時には表向き強力的な政策を行うことにより仏教界は徐々に対抗力を失っていったようです。
そして江戸時代に入ると、徳川幕府は1665年までに諸宗寺院法度を完成させていきます。
その大きな政策は2点あります。
一つは、本末制度。
本山と末寺の関係を制度的に確定する、という制度です。
このことは、本山にとってもメリットがありました。
末寺から上納金を取り、人事権などの強大な権力を持つことができたのです。
このような大きなメリットがあるため、本山側も積極的に協力しました。
もう一つは、寺檀制度。
寺院と檀家の関係を固定化する、という制度です。
この制度については、キリシタンではないことを証明する寺受制度が建て前でした。
が、真の狙いは宗旨人別帳(=戸籍)の作成を制度化することで、民衆を支配する手段だったのです。
この制度は寺院にとってもメリットが大きく、寺院側も積極的に協力したのです。
葬式などの儀式を寺院が行なうことが、完全に固定化されていきました。
これら制度には大きな特徴が2つあります。
すなわち、
・幕府側と寺院側の双方にメリットをもたらすこと。
・ヒエラルキー(=ピラミッド階層)的に支配すること。
です。
一方的ではなく、WinWin的な制度であること、そして、現在の官僚制度にも見られるヒエラルキー的な堅固な組織体制を採用したことなどが、250年以上に渡って続いた徳川幕府の基本的な考え方なのでしょうね。
巧みで現代的な政策なのではないかな、と思います。
いやはや、歴史から学べることは多いな、と改めて感じましたので、ご存知の方も多いでしょうが、シェアさせて頂きました。
なお、今回も参考にさせて頂いたのは「日本仏教史―思想史としてのアプローチ」です。