「唯識」本にある釈迦の【無記】という「善悪を超えた」立場の大切さと素晴らしさ
前回紹介させて頂いた本「唯識思想入門 」の中にあった、印象に残った言葉・態度についてご紹介させて頂きます。
それは、唯識というよりも、仏教で言われている重要な概念についてです。
それは「無記」の立場・対応です。
「無記」とは、善でも悪でもない立場、「本来の目的を守るために沈黙を守る」立場と言えるでしょうか。
「善悪を超えた」立場、とも言えるでしょうかね。
まだまだ説明不足ですね。
中部経典第63経「小マールキヤ経」の「毒矢のたとえ」で補足します。
あるとき、釈迦は、
・世界は永遠なのか/永遠ではないのか?
・世界は有限なのか/無限なのか?
・死後は存在するのか/存在しないのか(意訳)?
など、形而上学的な質問を受けます。
これに対し釈迦は、「毒矢のたとえ」で返します。
すなわち、
毒矢に射られ苦しむ人を前にして、
どういう名前の人が射たのか、どんな外見の人が射たのか?
どんな弓で射たのか?などの答えが分かるまで治療しない、
ということが有り得るだろうか。さっさと治療するに違いない。
同様に、世界が有限なのか無限なのか、等々に関わらず、
人は老い病気になり死ぬ。
それらの苦しみを止滅させることにこそ専心すべきではないか。
この目的を見失わないためにも、上のような質問には
私(釈迦)は答えない、説かない。
無用な論争から逃れ、沈黙を守り、本来の目的を見失わない、これが「無記」という立場です。
この本のタイトルにある唯識思想の阿頼耶識そのものは「無記」なのです。
阿頼耶識は無記だけれども、六識による善悪が入って来て、苦が生じてくると言います。
善悪をつけない、無用な判断をしないことで「苦を止滅できる」のですね。
現代社会の価値観では、何でも善悪や白黒を付ける機会がたいへんに多くあります。最近ますますその傾向が強くなっているように思えます。
けれども、今一度、自分自身の本来の目的を忘れず、無用な論争・争いへは沈黙を守り巻き込まれない、すなわち「無記」の立場で臨んでみることも大切ではないでしょうか。