インド哲学史に大きな位置を占める【ヨーガ】の目的は「精神的至福」です。
昨日、一昨日と、インド哲学史を概観する本
「はじめてのインド哲学」についてご紹介させて頂きました。
本日より、インド哲学において多大な位置を占めるヨーガについて
ご紹介したいと思います。
ヨーガと言えば、ハタヨーガに代表されるように
様々な体位法(ポーズ)、呼吸法などが有名で、
実践的技法というイメージが強いかと思います。
実際、ヨーガは技法である、ということで間違いはありませんし、
口伝により実践方法を伝承されてきた側面が強いのですが、それでも、
インドにおける「可能な限り言語化する、言語を超える部分は沈黙する」
という伝統の影響を受けているのでしょうか、
総合的にその理論をまとめたものが存在していたりします。
今回は、その実践内容というよりは、
ヨーガの思想、目指すもの、などについて
立川武蔵氏の「ヨーガの哲学」なども参照しながら述べてみます。
さて、ヨーガを貫く大きなテーマとは何か?
まずはインド哲学から説明したいと思います。
インド哲学の根底には、この世界の「聖なるもの」と「俗なるもの」に対し、
「俗なるものを止滅をすることで、聖なるものが顕現する」という考え方があります。
ただ、止滅という表現では十分ではないでしょうね。
止める、というと能動的なニュアンスが強いので、
しずめていく、消えていく、溶けていく、という表現も加えたら良いでしょうか。
能動的に止める、という側面はあるけれども、
一方で、しっかりとした準備をした後に、自然に消えていく、
という側面もあると思います。
そして、その「聖なるもの」の顕現を準備する道がヨーガであり、
そのための優れた技法がヨーガである、と言えます。
ヨーガが目標とするところは、多くのインド哲学派と同様、「精神的至福」です。
精神的至福を得るための「方法」として、解脱することが目標となっています。
ヨーガ修行の途中で身に付いてくる超常的な能力が目的ではありません。
(ただ、超常能力の顕現が重宝されていたことは事実のようで、
ヨーガの古典などにも、わざわざそのような章が設けられているくらいです)
かなり乱暴に言ってしまえば、
精神的至福に至るための強力なとして「瞑想」があり、
ヨーガとは、正しく瞑想する方法について書かれたものと言っても良いでしょう。
その範囲は、倫理面(普段の生活)、座法、呼吸、感覚の統御にまで
向けられています。それらを体得した後に、瞑想に至るということですが、
その瞑想についても、凝念(集中)、静慮、三昧という段階があります。
さらには、三昧の次の段階までも言及されていますね。
このような魅力的な総合哲学でもあるヨーガについて
さらに語らせて頂きたいと思います。
次回は、歴史的な面に焦点をあててご紹介させて頂きます。