最近の会話から -ライフスタイル、実学、キャリアなど「きっと、お伝えできることがあるはず」と感じた話-
今日は、最近立て続けに遭遇し、心に残った話をしたいと思います。
行きつけの理髪店に、理容師免許取りたての20歳の男性が就職して
いました。
彼と何気なく話をしている中で 「雇用保険、年金などの将来不安につ
いての報道はよく聞くので、何気なく知っているけど、具体的な内容に
ついては学ぶ機会が無かった。今も詳しくは知らない。友達たちも、
役所から通知が来ても訳が分からず無視している」というような話が
ありました。
そして、法事で会った高校生との話です。
「大学進学を希望しているけど、どこの学部に行くか決まらない。
理系ということだけ決めている。大学の学部が自分自身の将来を
決めてしまうので慎重に決めたいけど、なかなか決まらない。」
(本当は、そんなタイミングで将来は決まりませんが・・・)
元々私は、学校において新しいライフスタイル、居場所としての
コミュニティ、学習するコミュニティなどについて研究したいと思って
いて資料を集めていたくらい、社会、ライフスタイル、新しい働き方
などについて興味を持っていたので、現実社会のなかで連続して
このような状況に遭遇し、いろいろと考えることがありました。
(ちなみに、このようなテーマは、研究室の研究対象から少し外れる
ため、残念ながらあきらめたのですが・・)
何というか・・
社会に出た我々こそが、みんなに伝えられる「実学」があるのではないか。
さらに、ヘミシンクでご縁のあった方、中小企業診断士関係者など、
知り合った多くの方々とのお話も踏まえて、もっと発展させると。
「高校生などの若い人に限らず、様々な人に向けて」
「何かしら、人にお伝えできる何かがあるのではないか」
「もちろん、私がお伝えするだけでなく、全ての方が何らかのお伝えできる
ことを持っているのではないか」
「それは、相互に、知っておくべきだけど知らないことを補完するということ
につながるのではないか」
と思い至りました。
言葉にするのは難しく、まとまり切っていない面はありますが。。
情報を知っておけば何とかなることも、ある一定の程度あると思うし、
シェアできる経験がきっとあるはずだ、と思ったわけです。
冒頭の会話を受けて感じた具体的な内容としては、
このような先行きの不透明な時代だからこそ
・社会で必要な実学を必要としている人が多いのかもしれない。
・情報が豊富すぎて適切な情報を選ぶのが難しいため、適切な
(=社会に出たからこそ分かるような)情報を取捨選択する必要
があるのかもしれない
という感を持ちました。
さて、冒頭の出来事に関して、
もちろん、彼らが勉強不足や怠惰なわけはありません。
それどころか自分自身を振り返ってみると、高校生当時は自分の進路に
ついて曖昧なままだったし、社会保険の知識は皆無といってよいくらい
でした。会社員だったので、それら保険は天引きして給料として渡されて
いましたし、保険などかけなくても生きていけるくらいに考えていました。
(実際に、ずっと生命保険には入っていませんでした・・・ )
当時の私と比べ、彼らは実によく考えていると思います。
報道などでも頻繁に、将来不安に関し報じているため、否が応でも
自覚する機会がありますし。
さらには、昔と違って情報も豊富にあります。
(まあ、情報が豊富すぎると、返って情報の取捨選択が面倒になってしまう
面がありますが・・・)
さて、冒頭の会話の中で私がどうしたかというと。
理髪店の男性へは、
曲りなりも、ファイナンシャルプランニングを学ぶことで社会制度などについて
知ることがあったり、何よりも自営業や会社員をしてきて実務的に学んだこと
もあったので、そのような知識を少しだけお伝えしました。
そして、高校生の男性へは、
有望と思われる職種についてお伝えしたり、何よりも自身が没頭できるような
ことこそが自身に向いているものだから色々なことにチャレンジすること、を
お伝えしてみました。
僭越かもしれません。
彼らがどのような印象を持ったのかは定かではありません。
が、彼らが、私のような第3者的な立場の者と、このような話をする機会は
少なそうだな、という印象はありました。
今回は、若者のライフスタイル、という切り口でお話をさせて頂きました。
前述のとおり、私自身、以前よりコミュニティや場のデザイン、ということに
興味を持ち続けていました。これらを合わせて何かできることがあるかも
しれないとも感じます。
ともあれ、印象的な出来事でした。
理髪店での会話、面白いですね。何が、というと「誰でも、どこでも」性があるからです。
わたしも振り返ると、意外に話が楽しかったのが酔っぱらって出会った知らないおじさんとか、旅行先での出会ったサラリーマンとか、趣味を通じでご一緒したボート仲間とか、あまり必然性がない、偶然で出会った人たちの面白さです。
職場とか、学校とか、家庭などでは毎日顔を合わせるから、思いやりが大事とか、相手を大事にしているかのようにひとまず取り扱われているが、長くサラリーマンをしていると、相手を大事にするとはほとんど考えられない。効率とか自分のしごとが完結できるように、周囲を利用していると言い切れる。過程や、学校もどうしてもそういう側面が強くなる。相手がいることで、その役割がなりたつことになっている。だから、会社とか過程は自他ともに「もちつもたれつ」ということになっている。意外とこれって不自由なことではないでしょうか。偶然性のもたらす自由さ、ってあるのだと思います。そこから学べるだけの技量とか、勇気もひつようですけれどね。
コメントが遅くなり申し訳ありません。
おっしゃる通りですね!
偶然の出会い、ふとリラックスした場面での会話こそ、
素の自分であり、素の相手との会話ができますね。
これからも偶然の出会いを大切にしたいですね!