科学の立場、テーラワーダ仏教の立場から瞑想などについて語る「仏教と脳科学」が大いに参考になったという話。 《原始仏教・原始仏典について》

 

医学の立場から坐禅とセロトニン神経の研究をされ、セロトニン道場なる活動もされている有田秀穂氏と、テーラワーダ仏教の長老アルボムッレ・スマナサーラ氏による対談本仏教と脳科学: うつ病治療・セロトニンから呼吸法・坐禅、瞑想・解脱まで 」を読みました。

 

う~ん、正直なところこの本、結構話がかみ合っていない箇所がありますね。

テーラワーダ仏教における解脱などの境地は、出世間的な世界=言語や思考が終ったところから始まる世界なので、基本的に見えるものを観察し分析する科学とは、本質的にかみ合わない点があるのかも知れませんね。

科学的アプローチだと、どうしてもセロトニンに代表される物質的なアプローチがメインになるため、そういった側面は避けがたいのだと思います。

とは言え。

語られている立場、レイヤー(層)の違いはあれども、各々のご意見について大いに参考になる点があり、結果的に読んでみて良かったなと思いましたので、ご紹介させて頂いている次第です。

 

科学的な立場では、どの点が参考になったのか?

初めて瞑想する人の脳の変化についてデータを取りそろえることで、瞑想にうまく入れているか、うまく導入できているかの、科学的で客観的な指標になり得る、と思います。

ヘミシンク・トレーナーとしてヘミシンク・セミナーを開催させて頂いていても、「うまく体験できているかの確信が持てない」というお話が時たまあります。そんな時、感覚的な(でも多くの人と共通した)言語で体験の目安を語らせて頂くのですが、加えてこういった客観的な指標を持つことは、さらに有用だと思います。

また、仏教者の立場からは(特にテーラワーダ仏教など、ブッダの時代の仏教では)、瞑想とは解脱のための意識開発の手法であるわけですが・・・瞑想の技法を現代社会へ広く展開していくこと(本書では、うつ対策などについても語られています)も必要ではないかとも思います。

大いに意味のあるご活動ですね。

 

一方、スマナサーラ長老のお話の中では?

以前私が抱いていた「テーラワーダ仏教では、観察系の瞑想がほとんどとなり、集中系瞑想の実修が少ないように見える」との疑問点への「解答」を明快に語られています。

瞑想は、大きく言って、サマタ瞑想(集中系)とヴィパッサナー瞑想(観察系)に分けられるのですが、伝統的にはそれらをどう捉えられているかというと、

昔の修行者は、まず呼吸瞑想でサマーディをつくって精神統一した(=サマタ瞑想)。心を統一すると、欲も怒りも落ち込みもなくなって、心が活性化した状態になる。喜悦感を感じているので、すっかりからっぽの状態になっている。

それから、次のステップとして智慧の開発(=ヴィパッサナー瞑想)にとりかかるのである。

すなわち、サマタ瞑想→ヴィパッサナー瞑想の順に行うのが基本なのです。

ただ、あまりに忙しい現代社会において、サマタ瞑想を完成させる時間が無いため、サマタ瞑想だけを行うステップを省略して、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想を同時に行っているのです。

もっと具体的には、慈悲の瞑想や歩く瞑想は、基本的に観察系瞑想とも言えますが、これらを集中系の瞑想として位置付け、これらをまず行うことで、心の落ち着きや集中力を付けた次に、

(これら瞑想を完成するまで待つのではなく、その日の内に)智慧の開発のためのヴィパッサナー瞑想に移るのです。

何と言いますかね。

慈悲の瞑想や歩く瞑想などの観察系の瞑想に対して、集中系瞑想の役割を与え、集中→観察のステップを経ているのですね。

恐らく、東南アジアの国々の出家僧は、サマタ→ヴィパッサナーという丁寧な取り組みもされているのだろうな、とも思います。私たち世間の人間には、現代人向けに、前者のようなステップが開示されているということなのでしょうね。

代表的には、以上2点が大いに参考になりました。

興味深くありませんか?

仏教と脳科学: うつ病治療・セロトニンから呼吸法・坐禅、瞑想・解脱まで」を読んでみられるのはいかがでしょうか?

 

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