藤原正彦先生が【国家と教養】で提示された「現代の教養」に共感します!
10年以上前、「国家の品格」という大ベストセラー本を執筆された数学者の藤原正彦先生の近著に、
「国家と教養」なる本があります。
藤原先生曰く、
「教養」とは、世の中に溢れるいくつもの「論理」の中から最適なものを選び出す「直感力」そして「大局観」を与えてくれる力であり、諸現象の真髄を見抜くための物差し、
とも言えるものです。
古代ギリシア時代以降、教養の伝統は守られてきましたが、とくに20世紀に入ってから衰退気味だと言います。
さらに藤原先生曰く、現代とは。
1.資本主義の発展に伴い、教養などは生存競争に勝ったり、生活を豊かにすることに役立たないと捉えられるようになった。
2.日本においては、明治以降、西洋に追いつき追い越せということで、日本古来の武士道精神、儒教精神、惻隠やもののあわれなどの情緒が忘れられ、あまりにも西洋近代の価値観、文化、技術を取り入れてしまった。それゆえ日本人は、日本人としての形、基盤をもたない根なし草のようになってしまい、流行りの新しい思想などに圧倒されてしまったり、国難などにおいて力を発揮できないような存在となってしまった。
と言います。
このように従来の教養主義自体が衰退する一方で、現代のような民主主義国家では、一般国民が(必要な)教養を持たねば、容易に衆愚政治国家に陥ってしまいます。
それでは、どのような教養が求められているのか?
という点が本書の肝と言える部分であり、まあ、ここで全部書くことはしません。
が、抜粋すると、従来の文学、哲学など人文教養に偏り過ぎるのではなく、付け加えたい教養の1つとして「大衆文化教養」をしっかりと身につけようと言われます。
では、「大衆文化教養」とは?
私たちの身近にある「文化」です。
例えば、大衆文芸、芸術、古典芸能、映画、マンガ、アニメ、歌、落語など、とくにユーモアをそなえた大衆文化教養が大切ではないか、と藤原先生は言われています。
完全に共感します。
私自身は、教養とは「バランス感覚を養うもの」であると思っています。
多様なものに触れることで、自身がたまたま出会った最初のものを絶対正義とはしない、というか、相対化できるような視点が醸成されるのではないでしょうか。
このためには、実体験だけだと、 ―― 深く強烈なものとして身につくとは言うものの ―― 体験できる範囲が狭くなってしまいますので、他人の話を聴く、本を読む、そして上記大衆文化に触れることなどが、実体験を補完してくれると思います。
従来のような、人文学などに偏り過ぎた教養主義ではなく、かといって功利的、実学的すぎる価値観でもなく、多様であり、現実の人間が織りなす社会を土台とした、例えば大衆文化的な疑似体験に触れることは大いに意味があると思います。
最後に、大切だな、と思うことを挙げさせて頂きます。
「教養を持つことで、正しい価値観、物差しを持ちえた」などと考えるのは、傲慢だと思います。
せいぜいが、ベターな見解を持てるくらいであって、さらには時代とともに、より適切な状況が現れ、選択肢が変わっていくことも多々あること、そして私たちにできるのは「常に新しい視野を持ち続けること」くらいなのかな、とも思えます。
ずっとプロセスの中にあり続けるということですね。
ただ一方で。
そういった視野を広げる、身につけるといった方向性とは逆に、「判断、価値観を捨てて生きる」という方向性も十分にあり得ると思うのですが・・・
この方向性は、個人個人の内面・意識探究においては大切だけど、現実社会にも適用できるかどうかは、まだよく分からないです。
多くの人が関与する、また社会規範などがガチガチに存在している現実社会において、あるがまま、なすがまま、成りゆきまかせで「在る」ことがベストだと言い切るのは、現時点では難しく思います。
判断、価値観にとらわれないという個人の意識のあり方と、判断、価値観を基盤として構成されている現実社会のあり方を、うまく両立させることは可能なのだろうか?などと、ちょっと訳の分からないことを思ったりもしました。
以上、「国家と教養」のご紹介でした。