自分自身のなかの「悪」の部分(≒現実感覚)を自覚することも大切だと気づける「現代霊性論」のご紹介
先日、内田樹氏と釈撤宗氏による講義録を元にした書「現代霊性論」より、「体系的な学びが大切」なことについて書かせて頂きました。
今回はまた違ったテーマ(似ていますけど・・・)を取り上げさせて頂きます。
本文を引用してみます。
釈撤宗氏のことばなので、ご自身のバックボーン(本職)である教団宗教と、危険な考え方を対比させたことばです。
危険な考え方の1つとして、「自分の思想に都合のよいものを、あっちこっちの体系からつまみ食いしてパッチワーク的に繋ぎ合わせた思想」がある、との話を受けてからの引用です。
教団宗教の体系は、長い時間をかけて社会と折衝を続けたり、ぶつかったり、折り合いをつけたりしながら練り上げられたものがあります。
そういう体系は、順序よくたどっていかないと危ないところがあります。(中略)
(例えば)密教というのは、都合のよいところだけ持ってきたら非常に危ないところがあります。(中略)
(けれども)密教をきちっと順序どおりたどっていくと、密教がもつ危ないトラップに対してリミッターが利くというか、ストッパーがかかるようにできあがっているんですね。
密教は神秘主義的傾向を持ちながら「真俗離れず」として日常生活や社会活動を重視するんです。
だから日本でも、治水工事や学校教育や社会福祉に力を注いできたでしょ。(中略)
自分の都合ええとこだけあちこち持ってきて寄せ集める場合、「宗教の毒」を避けられない気がします。
それで危ないと申し上げているわけです。
ここで「宗教の毒」とは?
別に宗教だけに限らないのですが、「現実感覚を失い、あまりにもバランスを欠いた思想の持つ、現実軽視の姿勢や本質からの逸脱」のことを言います。
そしてまたまた引用ですが。
※こちらは前半が内田氏のことば、後半が釈氏のことばです。
だいたいものごとには必ず裏表があるんですね。
こういう「いいこと」があれば、必ず「よくないこと」がある。対になっている。
それがリミッターとして機能していると思うんです。(中略)
(内田)先生はよく「俺の邪悪さはこんなものじゃないよ」とか、自分の悪の話をされたりしますけども、そういう人は、やはりバランス力がある。
純粋な善意のなかにこそ邪悪が潜むというところに気づかずに、つまみ食いでできた体系にハマると、純粋なだけに極限まで突き進む危険性があると思うんです。
あまりにも「日常の外部世界、すなわち見えない世界・神秘的世界などに盲目的に没入してしまうこと」や「理想主義一辺倒の思想に傾注すること」などにより日常の現実を軽視してしまうこと、
要するに、「著しくバランスを欠いた状態」となってしまうことにより、歴史的にみて幾多の悲劇がまき起こされてきました。
いわゆるスピリチュアルや宗教的思想、そして社会的思想(それも理想主義的なもの)に触れること自体は問題ありませんが、その道中には、上記のようなリミッターが無い世界に陥ったり、バランスを欠いてしまうという落とし穴があることを十分に知っておくこと、
そしてそのような落とし穴にハマらないようにするためには、以前のブログにも書かせて頂いたような外部(ここでは、他の社会集団や社会人たちです)とのコミュニケーションが取れていること、他の体系的な世界や考え方を学ぶことが大切です。
さらに本ブログ的に言えば、
そもそも自身とは、「理想的な存在などではなく、この肉体を持って日々の現実生活を生きている」、時には「悪い考えや行動も起こしてしまう」存在であることをしっかりと自覚して、
そして周りの、一見理想的な教えなどに対しても現実的で俯瞰的な視点を持つことが大切かな、と感じます。
自分で自分のことを笑えるような「遊び」の部分があった方がよい、と言いますかね、そんなことが大切だなぁと改めて気づかせて頂きました。
本書「現代霊性論」では、様々なトピックスが扱われており、読む方により様々な気づきがあると思います。