荘子も語っている、ブッダの教え的な境地【坐忘】
荘子は、「坐忘」という有名なことばを残しています。
坐忘とは、
手足や体の存在をうち忘れ、耳や目のはたらきをうち消し、この肉体から離れ心の知を追いやって、あの大きくゆきわたる自然の働きと一つになる。それが坐忘ということです。
荘子
とあります。
私はこのことばに出会い、原始仏教の「ブッダのことば」を思い起こしました。
例えば、日本では「ブッダのことば」として紹介されている「スッタニパータ」では、次のようなことばが見られます。
自己の身体を断滅することが「安楽である」と諸々の聖者は見る。
ブッダのことば
これ以外でも、膨大な数にのぼる長部教典、中部教典などの原始仏典でも、このようなことばが随所に書かれています。
すなわち、「身体、感覚、感情、理性などは本質ではない。それらに惑わされない境地にあり続けなさい」との根本的な教えがあらゆるところに見いだせます。
そして。
荘子を読んでいると、坐忘の如く、「自身の身体感覚などをうち捨て、悠久の自然の流れと一体になること」の大切さが随所で語られています。
想定されている宇宙観に違いはあるように思えますし、表現も違いますが、語られていることの本質には、大いに共通点があると思います。
それは、繰り返しとなりますが、「身体、感覚などは本質ではない」との点です。
私たちは、日常生活をしていると、「身体こそ私である」と疑いを抱くことなく思い込んでいます。
が、眠るときは肉体意識はなくとも夢を見ていますし、ヘミシンクを聴いたり瞑想すると、肉体意識が薄れ、何か別の意識が立ち現れてくることを感じます。
身体は本質ではない、なんてまったくもって怪しい話に聞こえるかもしれませんが・・・
実は案外そうではなくて、一考の余地がある考え方ではないかと思います。
それを何とかことばで表したい、と思っているのですが・・・
書いている端から、まったくもって十分じゃないな、といつも思います。
難しいです。
というより、語り尽くせることはあり得ないのでしょうね。
言語の持つ世界を超えているので。
けれども、語ろうとする意欲は大切だな、などとも思っています。
以上です。