【ブッダの真理のことば、感興のことば】において、生々しくも納得した「ことば」。 《原始仏教・原始仏典について》
先日のブログで私は、「ブッダの 真理のことば 感興のことば」についてご紹介させて頂きました。
今回は、この本の中から、全くもって私が納得した、もしくは印象に残った、ある意味生々しいことばについてご紹介させて頂きます。
一つ目は、感興のことばの第5章「愛するもの」から、
どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。
そのように、他人にとってもそれぞれの自己がいとしいのである。それ故に、自分のために他人を害してはならない。
すべての者は暴力におびえている。すべての生きものにとって生命が愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
「どんな存在も、自分が一番愛しい、自分が一番大切である=他人もそうである」ということで、だから「他の存在を殺すことは、それを自分と置き換えてみると、あり得ないことでしょう」ということですね。
よく道徳的、哲学的、根本的な問いで「なぜ、人を殺してはいけないの?」というものがあると思いますが、いろいろと理由付けをしなくても、「誰でも自分が愛しいのだ」「何で君が、その人にとって一番愛しい、《その人にとっての自分》を損ねることができるの?」ということで十分な説明となるのではないでしょうか。
と言うか、いろいろと説明を重ねる方が、かえって分かりにくくなっているように思えます。私には。。。
これって多分、利己主義ではなくて、当たり前のあり方のように思えるのです。この一節(=自分が一番愛しいこと)って、堂々と主張しても良い、と考えるのは駄目なのでしょうかね?
そして二つ目です。
実はこの一節も「愛するもの」の章の一部分です。「真理のことば」と「感興のことば」の両方にあります。
まずは、かなり有名な、真理のことばの一節です。
愛する人と会うな。愛しい人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
それ故に愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も恨む人もいない人々にはわずらいの絆が存在しない。
愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる。愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?
感興のことばでは、冒頭の「愛する人と会うな。(中略)会うのも苦しい。」に続いて、
愛する人々と離れるが故に、また愛しない人々に会うが故に、はげしく憂いが起る。それによって人々は老いやつれてゆく。
時が来て、愛する人が死ぬと、親族、知人が集まって来て、長い夜を徹して悲しむ。実に愛する者と会うことは苦しい。それ故に、愛するものをつくってはならぬ。愛するものがあるということがわざわいである。(後略)
これって完全に修行者の目線ですね。
私たちのような世間にいる人間、いえ他宗教の聖職者などからでも、
・遠い未来に起きる別れの悲しみを想定して、「人と会うな」なんて、「今を生きているとは言えない」「今を生き切ることが、すなわち時を超えて永遠(の愛)を感じることではないのか?」
・消極的過ぎる生き方ではないか?
・悲観的過ぎるのでは?
・「会うな」なんて極端すぎる。
などの批判は十分にあり得るでしょうね。
日常生活においては、
・素晴らしい出会いがあること、愛し愛される人々といっしょに何気ない生活を送っていることこそ、この上ない幸せである。
という面もあると思いますし、一方で、
・出会い、共に生きることこそが日々の感情のさざ波を引き起こしたり、安楽から遠ざける種(原因)になっている。
とも感じます。
この二つ目の引用させて頂いたことばは、印象に残りましたけど、その内容について果たしてどっちがどうなのか、私にはよく分かりません。
というか、どっちが正しいの?なんて言うつもりは毛頭ありません。
真理の捉え方、価値観、方向性がまるで違うゆえ、そのような思いが表れるのが当たり前だと思います。
まあ、この辺りの見解(?)は保留として、日々歩み続けよう、生活し続けようと思っています。
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