私たちの社会に深く根差した信念の一つ「お金教」について考えてみました。
日本人は、一般的に宗教心は強くないと言われています。
本当にそうでしょうか?
いや。
そんなことはないと思います。
我々の中に深く根差した宗教 --というより「信念」と言った方が適切でしょうが-- が存在していると思います。
その中の1つとは。
お金教です。
お金がない世界は、想像できませんよね。
現代社会には「マネーシステム」がガッチリと組み込まれています。それは知らず知らずのうちに競争、成長という価値観を内面化させる装置であり、それが機能した結果、今日の我々には自明のもの、必須のものとして捉えられている信念です。
では、お金とは何か?
交換を効率化する媒体、価値の尺度、信用の尺度、富の蓄積手段など、様々な定義がありますが、言えるのは、マネーとは実体ではなく単なる「取り決め」であるということです。
念のために付け加えておくと、「お金って、紙や金属という実体ではないか」という突っ込みがあるかもしれません。
が、これは便宜的に紙と金属を「取り決め」として扱っているに過ぎないもので、実は何にでも代替可能なのです。
その証拠に、コンピュータの発展に伴い、我々が普段見かける「お金」は、通帳やネットバンクに存在する単なる「数字」だったりします。便利の良い、コストのかからないものへシフトしていくのです。
それゆえ、お金とは「取り決め」であり、実体があるとは言い難いものだと思います。
この、実体のない「お金」ですが、所有し続けていても腐ることはないし、それどころか利子がついて増えることさえあり、何でも買えるし、ステータスになるし・・・万能なもののように思えます。
それゆえ、生活を豊かにするためにマネーを稼ぐのではなく、マネーを稼ぐこと自体が目的にさえなっている状況があります。
とにかく蓄えておけば、いつかは役に立つだろう・・・
しかし。
蓄える、といっても幾ら蓄えておけばよいのか分からない、けれども必死で働いてお金を貯める、その結果、時間は失われ、何のために働いているのかが分からなくなる。
極めつけが、お金が貯まれば貯まるほど、失うことが怖くなる、そのために数々のセキュリティ(盗難対策など)に莫大な投資をする・・・忙しくなる・・・
現代社会でお金が必要なのは確かですし、社会そのものの進展、豊かさの向上に寄与したことは確かです。
けれども。
行き過ぎたマネー信仰はどうなのかな、と思うのです。
皆様がご存じのとおり、現代のマネーは、それ自体が増殖を目指して、投資、投機されています。
今や投機などの経済規模は、実物のやり取りに行われる規模の100倍以上だとも言われます。
今回はそのような実態に触れることはしませんが・・・
我々の生活自体を、すべてマネー頼りにするのではなく、自身でできることは自身でするなど、自分の生活を自分の手に取り戻す事が大切なのではないかな、としばしば感じ入る次第です。
お金を全く使わない生活はあり得ませんが・・・可能な限りお金から自由でありたいな、と思う今日この頃です。