現代の消費社会は、【欲望への答え】をパッケージ商品として販売している、という話。

ベルナール・スティグレールの「象徴の貧困1」の、訳者によるあと書きに、端的で鋭い指摘が載っていたのでシェアします。

それは。

「本当の自分」「私らしさ」を求めようとする人に、市場はすかさず「あなただけの」「特別な」「限定の」商品を差し出してくる。

その際、映像や音響という、意識の時間にごく自然に滑り込んでくるメディアによって、「この製品を使えば、なれる未来の自分」の像が、消費者の中に投影されるのである。

実はこれは「欲望の規格化」であり、それを繰り返すうちに消費者は徐々に予定通りのものを望み、予定通りの行動をするようになっていき、結局ますます自分らしさを失っていく。

現代の消費社会は、私らしくありたい人とつながりたいという欲望を「ニーズ」にすり替え、それに対していとも短絡的に答え(商品)を与え続けることでその欲望を殺し、その結果「個」となるための実践の可能性を奪っていく。

ベルナール・スティグレール「象徴の貧困1」のあと書き

たいへんに的確な指摘ではないでしょうか。

後半にある「(与え続けることで)その欲望を殺し」との言葉のみ違和感を覚えますが、それ以外は共感します。

私たちは、企業、メディアが差し出す「欲望を規格化(パッケージ化)した商品・サービス」を、あたかも自分らしさを表現・体現するものとして、また自らが探し当てたもののように錯覚して、購入する。。。

「私は個性的」などと自負していても、実はそれは単にパッケージ商品を購入したのにすぎなかったりするという。。。

これだけ世の中に情報が溢れると、完全なオリジナルは不可能に近いと思います。

また、創造性開発においても完全にオリジナルなものはあり得ず、すべからく創造性と言われるものは「過去のアイデアをたくみに組み合わせたものである」との論説を目にしたこともあります。

そもそも、完全オリジナルにこだわる必要はないでしょうし、個性や創造性についても、過去の知見・英知を自身に合うよう適切に組み合わせることで、十分かつ適切なものが生まれ得ると思います。

冒頭の「欲望の規格化」のような事態は、実は誰しもが薄々と気づいていて、近年そこから離れようとする動きもチラホラと見えてきているように感じます。

その離れた先が、パッケージ商品とは言わないまでも、またしても、どこかで聞いたことのあるような組み合わせ的なスタイルであったとしても、自身の価値観で考えた末のスタイルならば、それで良しではないでしょうか。

その後の不断の相対化の気づき・学びによって、そのスタイルが洗練されて行くのだと思います。

冒頭の引用にあるような思惑に気づくこと、そしてそんな思惑に対して一歩引いて俯瞰の目で見つめることが、欲望の規格化から離れ、自分らしさを体現するための第一歩ではないでしょうか。

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