中村元氏訳【ブッダのことば】の美しく格調高いことばは、心を打ちます。おすすめです! 《原始仏教・原始仏典について》
先日のブログで、原始仏典「ブッダのことば-スッタニパータ」の解説部分の素晴らしい点について、ご紹介させて頂きました。
スッタニパータは、原始仏典の中でも最古級の経典で、韻をふんだり語呂合わせなどからなる韻文の詩句の部分と、それらに説明が加えられた散文の部分から成り立っています。
「スッタニパータ」は、仏教研究の第一人者:中村元博士によって訳されたものが有名です。博士曰く、韻をふんだ部分まではとても訳せなかったと仰っていますが・・・
いえいえ、そんなことはありません。
訳文も格調高く、美しくリズムのある素晴らしい文章だと思います。
仏教用語があまり用いられることなく、平易な表現で、多くの素晴らしい教えが語られています。
例えば、本経の一番最初「蛇の章」の一節はこんな感じです。
蛇の毒が身体のすみずみにひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。 --蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 --蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
奔り流れる妄執の水流を涸らし尽して余すことのない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 --蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
もしかしたら現代文に慣れた我々には、同じ表現が繰り返され、冗長と感じられるかもしれません。。。が、この文章は、元々文章として書かれたものではなく、韻をふんだ詩句として暗唱され伝承されてきたものなのです。
多分、覚えやすいからということもあって、同じような表現が繰り返されているのだと思いますが、私にはリズムが良くて分かりやすい文章だな、と思います。
また、蛇という表現が出てくるので驚くかもしれませんが、これは地域性ゆえですね。インドだと蛇は珍しいものではなく、よく見かけるものだから、最初の章で出てきたのでしょうね。
次は、有名な「犀の角(サイのつの)」の冒頭です。インドではサイもよく見るのでしょうかね。
あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。いわんや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。
交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
こちらでは、愛執を持たないこと・独り自立して歩むことについて語られています。様々な例を示しつつ、犀の角のごとく、まっすぐに歩みなさいということですね。仏教修行色の強い表現だと思います。このようなリズムで、犀の角についての文章が続いているのです。
さらには、こちらについてもお聞きになった方もいらっしゃるかも知れません。「田を耕すバーラドヴァ―ジャ」の一節です。
食を受けるために立っているブッダを見てバーラドヴァ―ジャは、「私は耕して種を播いてからそれを食べている。あなたも種をまいてはどうか」とブッダに語りかけます。
対してブッダは、「わたしもまた耕して種を播く」と言われます。
鋤も牛もいないのにどうやって耕すのかをバーラドヴァ―ジャに聞かれたブッダは、
わたしにとっては、信仰が種子である。苦行が雨である。智慧がわが軛と鋤とである。慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ち着けることがわが鋤先と突棒である。
身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたくしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和がわたくしにとって牛の軛を離すことである。
努力がわが〈軛をかけた牛〉であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば、憂えることがない。
この耕作はこのようになされ、甘露の果実をもたらす。この耕作を行なったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。
と言われます。原始仏教の教えを、難しい用語なしに、例えを用いて簡潔に示されているのです。
これらの文章は、スッタニパータのごく一部です。このように、スッタニパータには巷でも結構知られた章が多々あるのです。
リズムよく、格調高く、それでいてブッダの教えが簡潔に示された「ブッダのことば-スッタニパータ」は、初めて原始仏典に触れる方に恰好の入門書だと思います。座右の銘の如く、折に触れて目にするのも良いとも思います。