原始仏教に見る「輪廻」とは? 《原始仏教・原始仏典について》

 

インドで誕生した仏教は、その背景として輪廻の概念が根付いています。すなわち、人は生存時のを元に、何度も生まれ変わりを繰り返していると言います。

 

それでは、その「輪廻」とは一体どういうものなのか?

 

ということを原始仏典などを紐解いて、私が理解している範囲で書かせて頂きます。

輪廻を考えるうえでポイントとなるのは、色・受・想・行・識「五蘊」について把握しておくことです。

すなわち、私たちとは、5つの執着のようなものが集まって構成されているということです。感覚的・物質的なもの、感受作用、表象作用など、機能的なもの(?)が寄せ集まったのが私たち個人個人だということです。

これらは恒久的なものではなく(無常)、常に移り変わるものであり、そこに絶対的な中心はありません(無我)

この5つのまとまりが、名色、接触、渇愛、執着などを縁として離合集散を繰り返し、何度も何度も生まれ変わっている、その現象を輪廻と呼んでいるのです。

そして、そのような事実を智慧として悟り、五蘊の元となる渇愛、執着といったものを止滅させることにより、「五蘊が再び集まってくることはない」=「解脱」=「輪廻しなくなる」ということなのです。

極めて単純化して、やや乱暴にまとめると、こんな感じではないでしょうか。

物質的思考に慣れている私などは、「五蘊が無くなった後、安楽の境地(涅槃)に至るということは・・・安楽という感覚があるならば。。。そこに何かの感覚が残っているのではないだろうか? 感覚というとまた五蘊に逆戻りしてしまうので、もしかしてそれは、電磁場や重力のようなポテンシャルを持った場のようなもの?」とか、「存命中に真理を悟ったら、五蘊が分解して消滅しないのか?」などなど考えてしまうのですが・・・

物理的思考から解放されることが大切なのでしょうね。この辺りは今後、研究・実修したりしながらの究明課題として楽しみに取っておこうかな、と思います。

私の中では、先日書かせて頂いたヴィパッサナー瞑想の位置付けについての疑問点ほど大きなものではなく、そもそも言語で書き切れない範囲のものだとも思っています。

現時点での考察は以上です。

まあ、言えるのは、仏典を読めば読むほどよく分からない点が出てくるなぁということと、奥深くて面白いなぁということですね。いろいろと調べたり体験を積んでいくことで、上記のまとめについても、今後変化していくでしょうね。

 

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