ヘミシンクと深く関わり、ヘミシンクを聴き続けることで多くの気づきがありました。そのなかでも、自身にとって大きな気づきについて書かせて頂きます。

1.私たちの本質は、肉体(意識)を超えたものであると実感したこと

ヘミシンクでは「私は肉体を超える存在です」との重要なアファメーション(宣言)があります。

ヘミシンクによる意識探究をおこなうことで、私の本質は肉体ではない、のみならず、感情、思考、理性をも超えたものであることを実感します。

これって、単なる怪しい話なのでしょうか?

否。

古来、ブッダは、私たち人間を五蘊、すなわち 肉体(色)、感受(受)、表象(想)、意志(行)、認識(識) の5つが仮に集まったものであると説きました。

※ブッダは、それら仮のものを引き寄せる【 主体的な本質】の存在に対しては無記(=言及しない)の立場を取りました。が、五蘊の構成要素:色・受・想・行・識は実体でないと説いていることから、少なくとも五蘊が本質でないことは明白ではないでしょうか。

また、老荘思想においても、「坐忘(=手足や身体の存在を忘れ、耳や目の働きを打ち消し、この肉体から離れ、心の知を追いやって、自然の働きと一つになること)」や「心を空虚にして、肉体的な欲望から自由になることの大切さ」を至る箇所で説いています。

そして、インドの聖賢ラマナ・マハルシの一貫した主張は「私とは、肉体意識などの想念を超えて〔在る〕」ことです。

さらには、心理学者・哲学者のユング、ミンデル、ウィルバーも、自我を超えた自己・本質の存在をその理論に組み込んでいます。

これらは、ほんの一例です。

ここで私が伝えたいのは、ヘミシンクを権威付けることではありません。

ヘミシンクだけがこのような考え方をしているのではない、ことを伝えたいのです。

私は、これらの驚くほど共通的な見解に触れてみて「私たちの本質が肉体(などの表面的な意識)を超えたものである」ことが、決して単なる妄想や怪しい話ではないと思います。

ヘミシンクを聴き続けることで、たしかに、肉体(というより、表面的な意識)を超えた本質的な世界が広がっており、意識とは多層的な構造となっていることを実感します。

とすると。

その世界では、聖賢たちが語る、安寧な世界が開けているに違いないのでしょうね。そのような世界に触れ、体得(自身のなかに構造化することです)できるよう、私はヘミシンクを聴いているといっても良いくらいです。

2.自己として「在る」ことの安寧さを実感していること

1項目とも関連していますが。。。

私たちは日常で、いつも外部の刺激に反応し、また未来への不安や過去の後悔に思いを巡らせており、今「在る」状態で生きられていないように思います。

近年、マインドフルネス(気づきの瞑想)がグーグル社など各社の研修に取り入れられたり、心理療法でも第三の認知行動療法として取り入れられています。

あまりにも肉体意識など表面的な意識を働かせ、思索を巡らせて生きることの限界を感じ、このような手法が世間一般でも取り入れられ始めているのでしょうかね。

ヘミシンクを聴くことで導かれる変性意識状態は、ある意味マインドフルネスにも通じる状態、つまり日常的な意識がおとなしくなり、それを超えた意識(自己・本質的な意識)が主となった状態です。瞑想的・気づきにも通じる状態です。

ヘミシンクを聴き続けることで私は、現代社会の、あまりにもスピードが速く刺激的な世界と間(ま)をとって生きることの大切さ、自己として「在る」状態の安寧さに気づくことができました。

日常生活に、このような「在る」時間を加えていくことが大切だな、と感じています。